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流人・小山弥兵衛の墓 |
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時は江戸の時代、壱岐の島には関西方面や中・四国等の地域から罪人が配流された。また、
罪人達は中には壱岐の芦辺の廻船問屋等が堺方面に行き、その帰りの船で運ばれると言う
交通手段があったようだ。
罪人は知識分子「政治犯」が主で、神道、医師、役人等のインテリも数多く含まれていた、。
小山弥兵衛もその一人で、1739年(元文4)生野一揆の罪で、但馬国(兵庫県)より壱岐へ配流となる。
役務の余暇に林業、農業、果樹作り等近隣の農家に広め、読み書きを教える等地域の社会教育に
大きく貢献された。
壱岐での遠島生活は54年にも及び、88歳で亡くなっている。
墓は、地元の有識者の方の手入れにより奇麗に手入れされている。 |
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