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壱岐国分寺跡
天平十三年(七四一)、聖武天皇の詔により金光明最勝王経の信仰に基づいて、鎮護国家を祈念
する場として国分寺(金光明四天王護国之寺)が全国の国毎につくられた。
造塔の寺は国の華であるから、必ずよい場所をえらんで永久的建築とせよと詔にあるが、壱岐では
新しく寺を建てることなく、当時既にあった壱岐直の氏寺を当てている。
なお、壱岐は島であるが辺要の地故に、国に準ずる取扱いを受け、その後名称も壱岐国と改め
られた。
従って国分寺も当初は壱岐島分寺と称された。
元文三年(一七三八)国分寺(島分寺)を近くの阿弥綜宸ノ移し、跡に阿弥綜宸ネる小堂を建立した。
それは、明治時代に入って現在の国分寺に合併されている。
次に遺物であるが、先ず礎石として寺跡に直径51cmのもの一個、國片主神社の寄附芳名石の
台石として一個、国分寺勅使門(西門)中柱左右の礎石に各一個、その他二個の割戸が国分寺跡
石積みのなかに残っている。
次に瓦であるがその数寥たるもので、宇瓦は出土稀有で大正末年に採集された二片がある。
色は灰黒色、構成はやや竪緻、瓦表面は中央に天平式の中心飾のある均正唐草文を配している。
一片は不明であるが、他の一片は県立博物館に展示している。
又、平瓦の布目模様の灰黒色の瓦は壱岐郷土館に一個展示してある。
それから、発掘調査では平城宮と同じ瓦が出土して注目されている。 |
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