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土肥家の阿房塀

安永年間より天保年間に至る間を土肥家のもっとも富有の時代だったと言われている。

当時大阪に於いて発行された富限者番付で第一を鴻池として第二だった。

大阪には販売所倉庫が数棟あり、これを土肥町と称していたようだ。

土肥家は鯨組を壱岐だけでなく、平戸、対馬、小川島にも出している。

明和四年(一七六七年)九月、土肥市兵衛は勝本の本浦を開拓してお茶屋敷を建てた。

3年かけて築いたというその屋敷の塀は高さ7メートル、長さ90メートルの巨大な石垣で、

塀だけ残ったその姿を、地元では「阿房塀」として親しまれている。

土肥家のお茶屋敷には当時の平戸藩はもちろん、九州各地の大名が金銭融通の為使者を送り、松浦藩主は自ら来遊することもあったという。


壱岐の各港町「浦」と呼ばれるところには当時鯨組で活躍した家が幾つかあったと言われ
ている。

当時の言い伝えでは「大きな鯨を一頭取れると一家が一年は優雅に暮らせた。」と言うので、
土肥組は最漁期江戸時代中期以降、操業体制は操業船56船、従事者858名からなる
大事業で、鴻池、三井とともに日本の三大富豪の一つとして数えられたほどである。

その凄さがどれだけ凄いかと言えば、
土肥鯨組に関係する年代別の流れ

高さ7メートル、長さ90メートルの大きな塀は、京都・大阪方面より数多くの美女を、
呼び寄せて住ませていたことから、人目を避けるための塀であったとも言われている。


※西海捕鯨業における中小鯨組の経営と組織


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  古文書@

前目勝元鯨組永続鏡

著:土肥市兵衛秀睦
成:安永6年
市兵衛秀睦は土肥鯨組の4代目でその最盛期をつくる。前文6葉に子孫のため永続鑑を書くわけを
述べ、鯨組の配慮すべきこと、心掛けなどを説く。次に明和7年から安永4年まで267本の勝本、前目
の鯨の大漁を特記する。そして毎年御運上銀油員数の事や前細工始終一切註文の事などを始め、
鯨組を運営して行く上の全てにわたり、いろはの順に45の事項をのせている。土肥組はこれから20年
ばかりして原田組に引き継がれた。
 
 
 
     
     
 
     
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